地下50メートルの洞窟で熟成させる唯一無二の硬質チーズ
Vol.79 フリウリ=ヴェネツィア・ジューリア州カルソのチーズ生産者
2025.06.26

text by Paolo Massobrio / translation by Motoko Iwasaki
イタリア北東部フリウリ=ヴェネツィア・ジューリア州カルソ地方。真冬に吹く地域特有のボーラという冷たい強風で知られるこの土地で、唯一無二のチーズを作るダリオ・ズィダリッチ(Dario Zidarič)が今回の主人公だ。
「カルソの高原は、酪農を営むには厳しい土地です。地層は薄く、降水量も少ない。冬にはボーラという凍てつく強風が吹き荒れ、逆に夏は暑く、乾燥しきった風が吹きます。家畜に与える牧草はごく小さな面積の土地、多くは数百年もの間、未開の草地だったところに自生している草を刈り取って与えます。ここでは干し草を得るのも並大抵の仕事ではありませんが、海岸線まで車でたった10分の地点ながら山岳部と同じくらい繊細な草が自生しています。冬は大陸性の、夏は地中海性の気候が植物の成長を促してくれるので、植物のアロマや成分がそれは豊かなんです。この地域に自生する植物の種類は1800種にも及ぶほどです」

ダリオは、スロヴェニア国境を間近に控えた小さなチーズ工房で、妻のサンドラ・ミリッチ(Sandra Milič)と28歳になる双子の娘ハナ(Hana)とレア(Leah)の4人で牛を飼育し、チーズを生産している。

「祖父母は牛を飼い、乳を売って生活していましたが、僕は幼いころから彼らの仕事に心惹かれていました。僕の両親はそれを利益の乏しい敗者の職業とみなして家業を継ぎませんでしたが、僕は酪農という仕事をそんな風には考えなかった。生まれた土地で自然と関わりながら暮らすことの喜びを僕は知っていましたから。金属機械メーカーで何年か勤務した後、それまで培ったすべてを22歳で投げ出せたのは、この岩だらけの不毛の土地が僕には必要だったから。僕はそうしてカルソに戻ったわけです」

「僕のチーズ」はカルソを感じるものでなくてはいけない
「この土地に戻ると決意するに当たり、僕は酪農を経済的に成り立たせる方法を考えました。祖父は乳質が良く、放牧に適し、厳しい気候にも比較的強いブルーナ・アルピーナ種を飼育していました。でも僕は、カルソの地形では放牧は困難であると判断し、乳量では他を凌ぐホルスタイン種を選びました。ただし、夏は野外のボックス内で飼育し、所有する牧草地の草を食べさせています。

転職当時は、自分でチーズを生産することはまだ考えていませんでした。搾乳した乳をタンクに集めて、卸売り業者に販売していました。チーズは、悪天候で町まで牛乳を届けられない時に適当に作っていたくらいです。
ところが僕の牛乳を納めていた業者が、モンタズィオ(Montasio:フリウリ地方で作られるDOPチーズ)の製造免許を取得し、僕の牛乳で作ったモンタズィオが重要なコンクールで最優秀賞を獲ったのです。このことで僕の生産する牛乳の質の高さは証明できましたが、EUの定めた牛乳の取引価格以上の対価は得られないという現実に直面しました。牛乳の生産だけでは大規模酪農事業者がより有利になる仕組みが存在する。結果的に、チーズ生産者となることで解決せざるを得ないと悟りました。これが2004年のことです」

「僕は、生まれ育ったこの土地への愛情から祖父母の仕事を継いだわけですが、では『僕のチーズとは?』と考えた時、それはカルソという土地を感じられるものでなくてはならない。だから乳酸菌スターターを作るところから全ての工程を自然に委ねる製法でチーズを生産しようと思いました。
具体的には、一旦70℃まで温めた保温機に牛乳10リットルを入れ、40℃に下がった状態で翌日まで置いて乳酸発酵を促します。こういうプロセスは大規模チーズメーカーには選択できない。僕たちのような小さな工房だから、用いることができる。その違いは、チーズになったときに独特の味わいとしてはっきり表れます」
ダリオの言葉にふと、チーズ作りはワイン造りに共通している点があると感じ、はっとした。ダリオにとっての乳酸菌スターターは、ブドウ圧搾時の天然酵母のそれに似ている。僕の思考は瞬く間にチーズとワインのマリアージュにまで及んだ。旨いチーズにはおいしいワインを合わせないわけにはいかんだろう?

強風、植物相、洞窟をチーズで表現する
ダリオはカルソ地方の3つの異なる世界観を表現するため、3種類のチーズを作っている。一つ目は「ターボル(Tabor)」。
「これは吹き荒れては消えを絶え間なく続けながら、岩をも砕く北東からの強風『ボーラ』の息子のようなチーズです。乾燥した場所で熟成させるため、風が吹く時に熟成庫のドアを開けておきます。このチーズには、フレッシュチーズ(熟成期間が2~3カ月)、中期熟成(熟成期間が6~8カ月)、そして熟成期間が1~2年の長期熟成チーズがありますが、どれもまさにポエミーな味わいがありますよ」

次にこの土地の植物相の豊かさを表現した「カチョッタ・アッラ・サントレッジャ(Caciotta alla Santoreggia)」。
「サントレッジャ(英語名:セイボリー)は、夏の植物です。この辺りの乾ききった草むらを歩いていると、タイムやミントに胡椒がミックスされたような優しい揮発性の香りがしてくるでしょう。この香りをチーズに移し込もうと製造途中のカードにサントレッジャを加えています。生乳を用いた小型のチーズで熟成期間は2カ月です。このチーズに合うワインはと聞かれたら、濃厚な白ワイン、もちろんカルソの僕の友人パオロ・ヴォトピーヴェッツ(Vodopivec)のヴィトフスカ(Vitovska)のようなワインがぴったりでしょう」

ダリオは今年61歳だが、ずっと若く見える。鍛え抜かれた大きな体躯。そうだ、吹きすさぶボーラに耐えながら仕事を続けるには強靭な肉体が必要なのだ。
僕がこんなことを書いたのは、三つ目のチーズとなる「ヤーマル(Jamar)」こそが、彼をチーズ職人ズィダリッチたらしめるチーズ。カルソの地下の世界を表現するこのチーズは、彼のような強さがないと作れないからだ。彼の強靭さを語るのに、まずは手短にカルソの洞窟のことから話しておこう。

カルソ地方はその地盤が石灰質であるために浸食がおこり、特殊な景観を生んでいる。地上にはドリーネ(またはシンクホール)と呼ばれる大きな陥没や谷、そしてポノールという雨水の吸い込み口から地下に向かって洞窟が形成され、伏流水などを生む。
科学的観点での洞窟研究は、1800年代半ばにオーストリア・ハンガリー帝国下でウィーン=トリエステ鉄道建設を機に始まったとされている。(因みにカルソ地方を含むフリウリは、第1次世界大戦までオーストリア領内であった)

「ヤーマルは僕たちの工房の想像力とモノづくりに対する惜しみない努力のシンボルです。生産工程がとても複雑で労力が要りますが、それが最後に味に反映されます。
このチーズの唯一無二な点は、工房からさほど遠くない地点にある深さ70メートルのカルスト洞窟で4カ月間、熟成を経る工程にあります。洞窟は気温と湿度が常に一定で、チーズの熟成には最適です。完成した半硬質チーズは、質感はポロポロともろく、時には青カビも形成され、濃厚なアロマが持続し、まさに洞窟を思わせます。牛乳そのものの風味を損わずに、強烈で辛みのある味わいを持ち合わせている点が特長です。

このチーズの製法を思いついた時は嬉しくてたまりませんでしたが、洞窟の深さを考えると一筋縄ではいきません。僕はヘルメットと登山用ハーネスを装着し、石灰岩の洞窟を高低差50メートルまで下りなければなりませんし、チーズを地上に引き上げるために巻き上げ機も工夫して取付ける必要がありました。また、多湿環境下でチーズを棚に並べて置く熟成は耐えられない。チーズを裏返す作業のために洞窟へ頻繁に上り下りするわけにはいかないので、チーズをネットに入れ吊るして熟成させます。

ですが一旦食卓にのぼればこれは究極のチーズです。ハチミツを落としたり、デザートワインとも楽しめますし、料理への用途も幅広く、実際、幾人かの有名シェフがこのチーズからインスピレーションを得て料理を作っています」
この洞窟の熟成庫は僕が足を運べていない数少ないスポットの一つなのだが、彼の話を聞きながら、それは僕のこのプロポーションゆえなんだと理解した。もちろん、ヤーマルは何度か口にしており、このタイプのチーズにおいてはイタリアで最高峰の一つ、それだけは間違いないと諸君に伝えたい。
「僕は完ぺきな環境で暮らしていることに満足しています。人々は肩を寄せ合い、道で会えば挨拶を欠かさず、祭りやイベントには皆が喜んで参加する、そんな地域です。行政やテクノロジーに頼らざるを得ない都会の暮らしに比べたら、静寂に包まれ、たまに牛の声がするだけの環境下でこの仕事を続けていくことに、僕たちは一切の負担を心に感じることはありません。それが僕たちの日々の生活を心穏やかに過ごす手助けになっていると思います」

ヤーマルを初めて作った年、試作品第1号を洞窟に持っていったら、地元の洞窟探検隊か誰かが盗んで行ってしまったという。
「あの時はすごく腹が立ったなぁ。でも今にしてみれば、あの犯人はインディアナ・ジョーンズだったのだろうと思いますよ」
◎Zidarič
Prepotto 36, 34011 Duino Aurisina (TS)
☎ +39 392 559 4992
www.zidaric.eu
パオロ・マッソブリオ Paolo Massobrio
イタリアで30年に渡り農業経済、食分野のジャーナリストとして活躍。イタリア全州の優れた「食材生産者」「食料品店」「ワイナリー」「オリーブオイル」「レストラン」を州別にまとめたベストセラーガイドブック『Il Golosario(イル・ゴロザリオ)』を1994年出版(2002年より毎年更新)。全国に50支部6000人の会員をもつ美食クラブ「クラブ・パピヨン」の設立者でもある。
https://www.ilgolosario.it/it
『イル・ゴロザリオ』とは?

イタリア全州の優れた「食材生産者」「食料品店」「オリーブオイル」「ワイナリー」を州別にまとめたガイドブック。1994年に創刊し、2002年からは毎年更新。全965ページに及ぶ2016年版では、第1部でイタリアの伝統食材の生産者1500軒を、サラミ/チーズ/肉/魚/青果/パン及び製粉/パスタ/米/ビネガー/瓶詰め加工品/ジャム/ハチミツ/菓子/チョコレート/コーヒーロースター/クラフトビール/リキュールの各カテゴリーに分類して記載。第2部では、1部で紹介した食材等を扱う食料品店を4300軒以上、第3部はオリーブオイル生産者約700軒、第4部ではワイン生産者約2700軒を掲載している。
数年前にはレストランのベスト・セレクション部門もあったが、現在では数が2000軒以上に達したため、単独で『il GattiMassobrio(イル・ガッティマッソブリオ)』という一冊のレストラン・ガイドとして発行するようになった。
(『Il Golosario』はパオロ・マッソブリオの作った造語ですが、この言葉はイタリア人なら一見して意味を理解し、口元に笑みを浮かべる人も多いでしょう。『Goloso』という食いしん坊とか食道楽の意味の言葉と、『dizionario(辞書)』、『glossario (用語集)』など言葉や情報を集めて一覧にしたもの示す語尾『−ario』を結んだものです。食いしん坊の為においしいものをそこらじゅうから集めてきたという少しユーモラスな雰囲気の伝わる言葉です。)

私たちの出発点である雑誌『料理通信』は、2006年に「Eating with creativity ~創造的に作り、創造的に食べよう」をキャッチフレーズに誕生しました。
単に「おいしい、まずい」ではなく、「おいしさ」の向こうにあるもの。
料理人や生産者の仕事やクリエイティビティに光をあてることで、料理もワインもお菓子も、もっと深く味わえることを知ってほしいと8人でスタートした雑誌です。
そして、国内外の様々なシェフや生産者を取材する中で、私たちはイタリアの食の豊かさを実感するようになりました。
本当の豊かさとは、自分たちの足下にある食材や、それをおいしく食べる知恵、技術、文化を尊び、受け継いでいくこと。
そんな志を同じくする『イル・ゴロザリオ』と『料理通信』のコラボレーションの第一歩として、2016年にそれぞれのWEBメディアで記事交換をスタートしました。
南北に長く、海に囲まれた狭い国土で、小規模生産者や料理人が志あるものづくりをしている。
イタリアと日本の共通点を見出しながら、食の多様性を発信していくことで、一人ひとりが自分の足下にある豊かさに気づけたら、という願いを込めてお届けします。
『イル・ゴロザリオ』で公開されている『料理通信』記事はコチラ